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今日は朝から鬱で、「ほんと無理…」って唱えながら準備していたらお母さんに心配されて部屋覗かれた。

 

夜はお父さんと映画を見に行った。物語の推進力が強い分、少し押し付けと人間のついていけなさを感じる作品だった。鑑賞後初めて2人で飲みに行った。映画の感想から入って、物語を見るか構造を見るか、映画と小説に求めるものの違い、わかりやすさはどうして必要なのか、すごい作家、放任主義という名の束縛、フリーターに対する価値観、目的を持つことの意義、周りが左翼まみれ(私)などについて話した。

 

前々からわかっていたけど、お父さんは柔らかい遠回しな表現をするものの結構保守的で、マニアックなものも好んだ上でマスに伝えることをちゃんと大事にしている人だった。濱竜は映画の技法や構造や学問を基礎にしすぎ(主にカット割りとか画面のこととかだと思う)だけど逸脱も写しててまあおもしろい、商業映画でちゃんとエンタメをできているのが信用できる、しかし師である黒沢清は賞の割におもんないって言っていたのが価値観を知る基準としてわかりやすかった。(注:お父さんは小説では構造に、映画では物語に、作者の受け手への思いやりを見て取る。私は逆。映画の技法と呼ばれるものはたしかに伝統的で保守的なんだけど、映画界で脈々と伝わって提唱されているだけで皆の共通認識ではない。画面そのものにのみ注力するのは、その意味では狭い世界で高尚な評価ばかり追い求めている、すなわち今の日本の大衆映画業界にとってはnot保守的と解釈できるのだと思う。)

家族としてではなくて、出版業界でそれなりにうまくやっている人として話すと、すごく学びがある。お父さんはジャーナリズムから出版の道に進んだので、「伝える」がなによりも大切な軸なんだろうな、出版向いているなあ。いかにも小説家に文句を言われるタイプの編集者な気がして面白い。

 

「誰にでも理解できる簡潔な文章(多分自意識のエッセンスを抜いた文章だと思う)をリズムよく連ねていて、するする読めるしわからないところはないのに、どこか気持ち悪い」小説を書ける人を評価すると言っていたのが印象に残った。実在する作家を例に挙げてくれたんだけど、よくわかった。小学生も読めるし、上手くやれば教科書にも載せられるほどまとまっているんだけど、だけど、だけどなんか変。こねくりまわしたくどい文体は、いくら文学的であれ独自であれ、伝えることを怠っているから意味がない、そういう文体はいくらでもあるし、みたいなことも言っていた(意訳だけど)。

自分の世界を表現することと、それを人に開くことのバランス感覚の鋭さがイコール才能だとお父さんは考えているっぽい。概ね同意。普遍的なことを積み重ねて、その積み重ね方で個性を出すのが最高って価値観にものすごく共感できる。私も日常の中の非日常が好きだし、枠組を守った上で滲み出るグロテスクが好きだし、そういうものを勉強や趣味の題材にしてきた。全てモノマネなんだから、モノマネを前提としてその組み合わせで面白くするしかない。言葉も借り物だしね。自分の美意識の基準はそこ。いつの間にこの価値観を親から学んでいたのだろうか…。