Twitter休みだからツイート代わりに

てゆーか理想が高いのに努力しない典型的ななんでもない人ってだけなんだけどね。1日に5軒はコンビニに行っている気がする。コンビニだけじゃなくて、自分が依存している対象は、人か人に近いものに触れたい(物理的にね)、なにか社会的な意味のある動作に身体を任せたりしたいって欲を満たしてくれるんだと思う。それって恋愛が足りないのでは?と言われるかもしらんが、恋愛は別にその欲の元祖ではないだろう。社会で占める割合が大きいだけ。欲がまず原点としてあって、恋愛もコンビニもそれを一時的に満たすための依存対象でしかないよ。

 

コンタクトをつけないで生活するだけで何もかもがいつもと違っていて、自分が頼っていたルールや街というものがどれだけ主観的な空想でしかないのかよくわかった。言ってしまえば、コンタクト越しの世界は全嘘。でも眼鏡みたいに着脱できないから、全嘘ってこと忘れてた。私は、服を着てこそ人間そのもの理論に関しては信じているから、矛盾しちゃうんだけどね。裸眼の霞み具合が心の周期とうまく重なって、すごく生きやすい。

嫌中おじいさんが駅で騒いでて、若い警察2人が「内容は咎めてないんだけど、街で大きい声を出すのは迷惑でしょ?」と諭していた。さっきの電車と比較した。警察ってなんでいつもタメ語なんだろう、自分の職業を誇りすぎ。警察やってる人が警察じゃなくて、1人だったら、諭さないよね。おじいさんじゃなくて輩だったら諭さないよね。あと、内容を咎めているよね。とか色々考えていた。コンタクトしてないし、警察がいるから反撃が怖くなくてガン見できて、目逸らさなくて、通り過ぎているのに首を後ろに曲げたまま3人と目合わせていた時間があった。ぼーっとした。警察も、視力の悪い私も、特権に頼るばかりで自分がない。

 

 

ドトールのミルクレープを久しぶりに食べたんだけど、あれって「小学生の頃、小花柄の布が壁か床にあるような戸建ての一人っ子の友達ん家に遊びに行って、遊びがひと段落ついたときに友達のお母さん(エプロン付けている)が出してくれるおやつ」のイメージそのものじゃない?皿の模様とか、味のほどよいべたっとしたチープさとか。一昔前の、日本なりに解釈した洋風感がある。