「良い」サイゼの時代になったけど

 最近のSNSでよく見る、「とても良い/〜でかなり良かった」概念が少し苦手。単調なものや日常風景のちょっと幼稚なおかしさを切り取って、一周回って俯瞰で高評価するみたいなスタンスのこと。ギャルや新入社員のぽかんとした雰囲気を評価することなども含む。面白いとは違うよね、良いは。良いの小馬鹿にした感じが、センスある審査員です感が、う〜ん。言語化難しいけど、Twitterよくやる人ならわかる気がする、Twitterの「良い」概念ってさ、

「私は別にこれを言葉通りの良いとは思っていないが、Twitter的良いに当てはまるだろうから、良いって言っちゃおう(Twitter的IQが高いと思われよう)(あわよくばバズろう)」

で拡散されているよね。逃避よ。

 

 

 それってかなり危ういと思うんだあ、あまり詳しくないけど、JAGDAぽい画像がぽいと盛り上がっていたときに同じことを考えた。オッパッピーはオーシャンパシフィックピースだから良いみたいなことを続けていたら、おたけサイコッチョーを良いとする未来が訪れてしまうよって思う。きっとTwitterの人々は「いや、おたけサイコッチョーは(一周回って)良いだろ」ってなるだろうけど、「良い」の誤魔化しは文体や奥行きっぽさなども含め「エモい」より危険ドラッグなんだからさ、譲れなさをちゃんと太くしないと空っぽなだけの馬鹿んなるよ。前提条件を考えずに一周回ったふりするのはダメだと思う。

 

 

 そういう風潮がさ、回り回って「私はLGBTに理解があります」「分かり合えなさを認めることが大事」とかいうキモスタンスをロエベのブローチみたいに纏って真ん中歩いてる空っぽな個人や企業を生み出しているのだと思う。

 このままではかなり語弊があるのでここはちゃんと書くけれど、「私はLGBTに理解があります」が世間的に正しくて「良い」からって心の奥底の差別感情を隠して発信するなというよくあるアレではない。関係ないけどそもそも「私はLGBTに理解があります」はバリ差別だしね。理解て。スタンスがそもそもないレベルで興味がないのに流行に乗るために関心があるふりをするなということです。いやこれもちょっと違うなあ、うまく言葉にできなくて苦しい。あと勝手ながら、今季の流行であるビーズネックレスやハートペンダントも「良い」からの流れだと思ってる。

 

 

 別に本物こそが「良い」とは思わないけど、だからといって本物以外こそが「良い」も、遭遇したときには何も言わなかったような、別に良いとも思わなかったような出来事を「良い」で賢いお洒落っぽく丸めちゃうのも、自分軸の感情が伴わないならやめたほうがいい。でも「良い」は自分軸の感情です感を出せるから沼なんだよね、わかるよう。だから自戒も込めて、言語化を怠らないで。